散骨は、すべきでない

images 今日、墓石メーカーの営業の方から長澤宏昌住職の書籍をご紹介いただきました。 氏は考古学者でもあることから人類の歴史の視点から埋葬について興味深く論じておられます。お骨を海にまいたり、山にまいたり、空にとばしたりと最近一種の流行りのように散骨が話題になり「私が死んだらお骨は海に流して・・・」なんてドラマのような美しいフレーズに憧れを持つ人も多くおられるはずです。また、それに応える業者も出来て実際に行われています。法的には漁業権とかクリアーすれば公海上は大丈夫だそうです。(但し、お骨ではなく2㎜以下の粉末にしなければいけません。)島根のほうには散骨島があって宅急便でお骨を送るそうです。 しかしながら、氏は「散骨=埋葬しない(お墓を持たない)」という事に異を唱えておられます。 ここからが少しおもしろいお話で、埋葬の歴史は日本では旧石器時代までさかのぼるそうです。鳥獣に食われないように、また目印として遺体の上に石を並べていたそうですが、ほとんど文明が発達していない時代に死者を弔うという行為が存在していたとは驚きです。縄文、弥生時代になると遺体の下にスギやクリの板や土器の欠片を敷いたり、ただ埋めるのではなく死者へのやさしさ、畏敬の思いが感じられます。またこの時代には墓域といって一族や集落で作った集団の墓が存在しましたが、そこに一緒に埋葬してもらえる事が重要でみんなの先祖として仲間に入り精霊や神のレベルまで昇華されていくと考えられていました。そしてその子孫たちはその存在が自分たちを守ってくれると信じていました。先祖という存在を敬い、それと結びつくことを求めた、そうですこれがわずか2000年程前の日本人の姿です。 「故人を忘れるためだとしたら散骨という手段も有効だしお墓もお仏壇も、写真もみんな燃やしてしまえば手っ取り早い。でもそれで納得できますか?」 氏は問いかけます。わずらわしさを避けるあまり先人たちが築いてきた大切なものを私たちが消してしまってはいけない。先祖を大切にしなくてはいけないしそうすることで守ってもらえるという気持ちは古代から私たちの中にDNAとして組み込まれています。お墓やお仏壇がないという事は日常の生活の中で先祖に手を合わす機会のないという事です。そんな家庭で育つ子供は謙虚さを失いまるで一人で大きくなったような大きな勘違いをしてしうかもしれません。 きちんとお墓に納骨した上でお骨の一部を散骨することなら問題はないのですがすべて撒いてなくなってしまうことは「供養」したことでなく「処理」したのです。そして、故人と語り安心できる場さえもなくしてしまいます。 ご来店されるお客様の中には「故人が生前に死んでも祀らなくてもいいと言ってた。」とか「後々祀るものがいないからお仏壇もいらないし、お骨は寺に永代供養してもらう」とかおっしゃられる方がおられます。皆さんそれぞれにご事情はあると思いますが、大切な家族に手を合わせる機会も持たなく本当にそれで納得出来るのでしょうか?なかにはいろいろ自分に理由をつけて「厄介払い」しているようにしか感じないお客様もおられます。 長澤住職のお話を読みあらためて大切なことを考えてみました。
category:日々の出来事  |  tags:  |  2015.11.16

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